2016年03月20日

「評論」と「感想」の違い



コメントにてブログの終了に関しての要望をいただきました。

こんな大したコンテンツも用意できないブログにコメントがつくだけでもかなり感銘的です。

のちに改めてお話ししますが、正直な所デジタルツール関連の記事はあまり需要も少ないようなので終了する予定です。
私にも時間を有効に使いたいという考えがありまして、どうせなら有意義なことに時間を割きたいとの結論に至りました。

もしこれらのコンテンツを新たに記事として提供されたいという方がおりましたら引き継いでいただけると幸いです。
思ったより大した知識は必要としません。この手のコンテンツは文戯研でなくても作れます。要するに私でなければいけない理由がないのです。

それらのコンテンツの新規配信は残念ながら終了の方向で固まっています。

一応、文戯研は文戯研でしかできないことに限定して尽力していく予定です。それには一回りセットしてまっさらなゼロからリスタートしたいという考えもありまして、それでブログ終了を一時決めましたが、まさか継続のご要望が複数の方々から出されるとは思っていませんでした。

ということで今後の予定をどうするかは改めて検討中です。

 そのコメントで知ったのですが、以前にこのブログでデジタルアドベンチャーシートを制作したあの「送り雛は瑠璃色の」を執筆された作者の方がゲームブックのレビューをされていたようです。
さすが奥の深い作品を創作される方は評論も奥が深いものですね。レビューされている作品は所持しているので改めて読むとして、


今回は評論について記事にしたいと思います。またゲームブック関連の記事ではなくてごめんなさいね。ゲームブック関連の知識が欲しい方はここで終了です。
これから長くなりますよ〜覚悟してくださいね〜
と言うよりもある傾向の人を避けるためにあえて長文にしています。


ネットを徘徊しているとゲームブックのレビューに関しては作品の数以上に見つかります。
前回の記事でゲームブックそのものも様々な質があり、対象とする読者層も様々に枝分かれしている記事をエントリーしました。その際、玉石混合という表現を使わせていただきました。

ゲームブックそのものに限らず、そのレビューもピンからキリまで玉石混合の世界です。いわばレビューも質の良いものから酷なものまで多々あるということです。ゲームブックも小説も文芸ですが、それを批評するものも当然文章であることから文芸になるのかもしれません。文芸というからには創作物の一環であり、当然様々なクオリティで色分けされても致し方ないのだと私は考えてます。


 そこで、唐突ですがこれを読まれているみなさんは「評論」と「感想」に関してどのような違いがあるのか考えてみたことはありますでしょうか?
 明確な定義らしい定義があるのかといえば辞典に掲載されているのだからあると思いきや、それも少々曖昧な表現で一体全体何処で区分けすれば良いのか不明確な部分もあります。

 よって、検索してみるとこの手の話題はいたるところで取り上げられています。

 そういった情報を元に大まかな範囲で共通する事項を自分なりに選別してみたところ、
「感想」は文字の通り感じたこと想ったことを指しており、書き手個人の感覚や感情を踏まえた主観的な意見で、
「評論」は文字の通り評価を論ずると書きます。感想とは対照的に客観的な検証で論理的に考察した話をするのが評論のようです。
(個人個人によって解釈が違うのかもしれませんが、ここでは大まかにそんな感じとして推測し話を進めます。)

 人は何か外的な事象や人を判断するときにそれが内向的に働くか外向的に働くかの方向性が決められ、そして感覚・感情・思考・直感の四つのうち自分が主体としている機能を優先的に判別・判断を下します。かの心理学者のユングが提唱した分析論です。
ゲームブックなどの文章を親しむ際にもこの手のクセが色濃く出てきます。

 感覚・感情による部分は(直感もですが)個人によって様々に形が変わります。作品を読んで感情を揺さぶられたり、感覚的なものを感じたり、あるいは直感で何かを感じたり。それはとても有意義なことでもあります。そういう「感」が作品と触れ合うことで大きく揺さぶられれば揺さぶられるほどその読者にとってその作品の印象が強く残ります。(二年ほど前の「受け手に変化を与えるもの」の記事で取り上げた内容です。)

 それはそれで人間として当たり前のことなのですが、そういった「感」は個人個人によって千差万別に作用します。要するにとらえ方は十人十色ということです。よって自分の「感」を主体に事象を説明したところで「主観」の色が強く出てしまうことです。例えば自分が面白いと感じでも他人はそう感じないという人がいるように、感情・感覚は抱く当人の性格や人格などの個性で方向性が変わってきてしまう傾向なのです。よって人それぞれ感じ方が違うものであり、それを文章で表現したところでどうしても自分視点の表現とみなされます。そういうものを「主観」と呼びます。(常識や人間心理の特性から客観的な「感」というものもありますが、ここではそれを論点としません)「好み(趣味)」なども「感」が影響してしまう色合いは強いです。


 「思考」というのは「感」という文字が入らずに変わりに「考」の文字が入ります。以前の記事で書いた通り「考える」ということは否定から入ります。人としてどうしても「感」は入ってしまうものですが、「感」で結論付けられた自分の心境をあえて否定し、感覚や感情をできるだけ通さずに論理だけで解釈します。

論理とは理にかなっていなければならない論であり、自分からの視点で見ても、他者からの視点で見ても同じ解釈として納得させられることが最終目的です。
もちろん筋が通っていなければ相手は納得しません。さすがに万人に理解されるとなるとそれはそれで究極的な次元の話にはなりますが、非現実的といえども論理はその「究極」をできる限り目指して「考察」そして「検証」して「究極」である最終的な理想形にする必要性があります。
 極論は抜きにしても、論理は自分や他人の共有の認識として通さないと論理とは言えません。そう言った観点から「客観的」でないと論理的とは言えないと思います。


人間の心理がベースとなっている以上全てが全てそのような傾向とは限りませんが、ここではその傾向が強い方向と解釈して話を進めます。


 では話を「評論」と「感想」に戻しましょう。

ゲームブックに至らず、小説や映画などの創作物含めてレビューされるときに「面白かった」「ムカついた」「笑った」「泣いた」という単語は多く見られます。これらは「感」によるものです。これらは人によって感じ方が変わる可能性を秘めています。「感動したというけど僕はあまり心を打たれなかったな」とか「笑っている人がいるけどどこが面白いのだろう」という感じ方をされる人がいることからも受け手の「価値観の違い」が現れています。よって書き手の個人の「感」を主体とした主観で書かれています。
 あとレビューの関連に多く見られるのが「あらすじ」を掲載すること。たとえば「主人公は内閣情報捜査室のスパイとして敵国に忍び込み…」と言った作品内の事象のみを説明したもの。これは「客観性の高いもの」として述べられているものですが、「考察」は入っていません。あくまで作品内の顕在情報を文章として伝達しているだけにすぎません。
 
 こういった個人の所感を主観的に書き綴ったものが「感想」です。ゲームブックのレビューで言うのなら「読書感想文」です。
「読書感想文」は学生の頃に誰もが書いたように勉学に必要な要素を持っています。何が勉学になるかというかというと自分の個性や気持ちを文章として表現することで自分のパーソナリティを再認識及び自覚する意味合いもあります。自分のために書くことそのものに意義があるものです。

 それはごもっともなのですが、他者や作者が目にしたときにはあまり役に立たなかったりします。あくまでその感想を書いた人物が個人的に感じたことなんかは「その人はそう感じたんだな」の一言で片付けられてしまいますし、あらすじなんかは実物を読めば済むことであって必要な情報でもありません。


 「評論」は「感」が入ることもありますが、主体はあくまで客観的にその作品および受け手の変動性を検証する形で「考察」が入ります。「考察」自体は作品そのものに含まれている情報ではなく、作品を目にした受け手が自ら考えて結論付けた創作物の一つです。感想にも考察は入ることはあるので一概に色分けはできませんが、評論に関しては考察していかないと評論にはなりません。それらは創作物の色合いが強く現れます。創作物というからには当然、さらにそれを読まれた受け手を動かす要素も十二分に含まれる可能性もあるわけです。
 受け手を動かす要素のある作品を書ける人は当然、同じような要素を持つ創作物の色合いの強い評論も書けたりします。受け手を動かす要素というのは「考える能力」も必要とされると思います。考えなければインパクトのある作品も作り出せませんし、考察しなければ「評論」なんてできず、ただの「読書感想文」しか書けません。奥の深い「評論」が書けない人は奥の深い作品も作れません。


 奥の深さと抽象的に述べましたが、一体どういう意味なのでしょうか。

 個人的な意見ですが、作品にも顕在的なものと潜在的なものの階層が存在するということです。顕在的というのはストーリーなどで公にされている情報で、潜在的というのは裏設定みたいなものです。大体の物語は時系列が進むことによって潜在的なものが段々と顕在化される傾向にありますが、最後まで潜在したままの情報もあります。その潜在の階層の最も奥底にありそれのプラットフォームというか土台に当たるものが、「テーマ」です。(人によって呼び名が違うと思いますが、私はそれをテーマと名付けています)

テーマというのはその作品における骨組みであり、究極的な表現で言うなれば「本質」です。作り手の「本心」というか「個性」が含まれているとも言えますね。会話なんかもこのような「本心」や「真意」がベースに組み込まれていたりして、それを察して考えながら相手の心理を読むという経験は誰にでもあるでしょう。作品の本質性というのも同じようなものです。
 この「本質」が明確に骨組みされていなかったり簡単によまれてしまうようだと全体が薄っぺらい作品になります。涙頂戴的な偽善作品とかですね。逆に完全にテーマを潜在階層の奥底に隠し通して考えないとそう簡単にわからせないように設定する作品もあります。ゲームブックでいうなら「永劫選択」がその兆候に近いかなとは思います。そういう作品はうまくハマるとミステリアスと印象付けられます。ただそこまでするにはそれなりに「考えて」作らないと難しいでしょうね。無論読み手の層も選んでしまいます。

 テーマというのは作者が訴えたいことでもありますが、基本的に作り手が作ろうと思うに至った欲求も孕んでいます。伝えたい、もしくは儲けたいなどの欲求です。創作するのにも作りたいという欲求から働いています。手が勝手に動いて作ってしまったんだよなんていう作家はいないように、何かしら理由があって創作物を生成しているのです。その理由というのが「本質」として現れるものだと解釈しています。最終形態的なものはその本質的なものを受け手と共有したいという欲求なんだなと思います。いつか書きましたが「売り上げる」ことそのものがテーマとして色濃く現れている作品もあります。「適当なこと言ってんじゃねーよ」と思う方はそれでも構わないのですが、少なくとも書き手も読み手も必ず理由があって書いたり読んだりしていることは事実です。決して手が勝手に動いたわけではございません。

 「本質」に関しては作品や作者の個性によって様々に展開されるため、一体どんなものなのかの情報は書きません。
ただ一つ言えるのは深い「評論」ほどテーマに踏み込んでいるということです。テーマを読み取れたか否かでその作品から得られるものは全くと言っていいほどに変わってきます。
1000の作品を見たり読んだりして上辺のあらすじを記憶したり、個人的な感情や感覚をただ書きつらねるよりも、10の作品を論理的に考察してテーマを検証した方が最終的に自分への糧となるものが大きいかもしれません。本質というものを見極めるとなぜその創作物を作るに至ったのかの作り手の個性が垣間見れます。それはものすごいほどに自分のパーソナリティーの向上にプラスに働くものです。もちろん生活上の選択肢も増えてきますし、ゲームブック作成能力にも反映されていくでしょう。

 作り手としてはテーマを読み手に読み取ってもらいたいという要求も持っていたりします。昔に言語や文章はあくまでコミュニケーションの道具であると書きました。ゲームブックしかり創作物も最終的な目的はコミュニーケーションとしての伝達にあると個人的に思っています。何度も書きますがテーマが作り手の本心ならそれが最終的に受け手側へと伝達しそれの共有や共感に繋がることが、作者の欲求の根本的な階層にあるのではと考えています。

 逆に受け手が捉えたテーマが作者の意図するところとは違っていたとしても、その推論自体は読書感想文とは別次元の創作物としての価値もあるため読まれた読み手を動かす作用もあるでしょう。受け手が論理的に考察してどれだけテーマに近づけるか。それもある意味芸術というジャンルに対する親しみ方の一つなのかなと自分は思ってます。

  ですが、作者が求める読者層と実際の読者層は必ずしも一致するとは限りません。テーマについて検証しないで上辺だけ見て感情論を語っても作者には不本意に映る場合だってあるでしょう。「ものがたり」として書いたのにゲーム性がないだのハッピーエンドじゃないと嫌だの、そりゃ不本意でしょう。ゲームブックだって様々なアプローチの仕方があると思うのです。それを主観的な感情・感覚でひとくくりして「あんなのゲームブックじゃない」だの「ゲームブックから一切手を引け」みたいな脅迫文を送られもしましたが、私だって不本意でならないです。


 最終的に「評論」というのはテーマを見出していることか否かということは重要かと思います。上辺では見ることのできない潜在的な本質を見れるということは客観的な視野性でもって、さらに幾重にも考察を繰り返していかないとなかなかたどり着けません。
 もちろんそのためには多角的な視野性が必要不可欠となります。

多角的な視野性とは何か?
読んで字の如くそのまま視野の広さです。
人と人との価値観の違いを尊重した上であらゆる角度から検証することで客観性で判断できるようになる能力です。

 今回の「送り雛は瑠璃色の」を執筆された作者さんのゲームブックレビューでは本人が自ら作成公開されている身であることから、「作者側の視点」と「読者側の視点」の双方から検証しています。
これが作成公開していない読者でしかない存在だと「読者側の視点」での単一方向からでしか見れません。

 その他様々な知識や経験などを活かした視点を自分の中に構築することにより、一つの事象や作品でも様々な角度から検証できるようになります。視点が多く、視野が広ければ広いほど「客観性」は増します。そして対象作品のテーマにも踏み込んで語られています。
 以前の「ゲームブック作成ノススメ」という記事を書いた根本的原因もこう言った視野性の拡大の推進を意図してエントリーしたものです。

 以前書いた「ブレインストーミング」と原理は一緒で視野性を広げれば今まで見えなかったものも見えてきます。視野とはライトのようなもので多く広がって配置されていれば作品の階層の奥底まで照らせるようになります。もちろん奥底に潜むテーマを読み解くに重要な武器にもなりえます。

 ですからもし「評論」らしい「評論」をされたいならば読者視点だけでなく、作者視点での検証も必要ですし、視野性を広げたいならば過去の記事から何度も言っている通り固定観念やイメージに固執しない考え方が必要になるわけです。視野性が低ければ「主観的」な感情・感覚論でしか書けず、そうなればアウトプットされるのはただの「読書感想文」程度のものでしかないのです。

 プロ野球の中継などで解説されている方も元プロ野球選手です。外野でヤジを飛ばしているだけのファンに解説させるということはありません。仮にそう言った人に解説させても「バカヤロー」「何で打たねえんだー」なんていう感情主体の罵声のみでしょう。そんな罵声は誰でも言えることです。誰でもできるということは誰でもいいということになります。誰でもいいというのは場合によっては存在が要らないということにもとれます。そんな風に言われるのは自分でしたら自殺するくらいに屈辱ですね。
実際に解説されている方は経験と得た知識を駆使して「考察」した「論理」を提供しているわけです。それだけ幅広い知識と経験は有効に作用するのです。

 もっとわかりやすく例えるなら料理人の味見です。料理に関して食べるだけの人と料理人では同じものを口にしても口にする言葉は違ってくるでしょう。「おいしかった」「味が残るようだ」などの抽象的な感覚論に終始する食べるだけの人に対して、料理人なら「隠し味に赤ワインを少し足しましたね」とか実際の経験をもとに作り手の視点から物事を見ることもできるわけです。

 作成なんてそんなの面倒だという方は読者の視点で「読書感想文」のみを提供するということに終始するものいいのかもしれません。
 ですがその感想文で何か外的なものを変えるとか動かすといったことはできません。感想は自分のためにはなるものの外的にはあまり説得力を構築しません。なぜなのか。これまでの文章を読み返して考察すれば一発で判ることです。おそらく創造力や発想力も身につかないでしょう。ただのベンチ外のまま一生を終えるだけです。


 ゲームブックのレビューを目にされる際は以上のことを踏まえて判断してみると新しい発見が垣間見れると思います。
感情や感覚主体で主観的に上辺だけの話をしていないか。逆に作品のテーマを考察しているか。
創作物としての価値のある「評論」と個人的な所感に留まる「感想」を判別してレビューのレビューを行ってみると、その人となりの学識が丸わかりになると思います。それこそ面白いぐらいに。
その中で信ぴょう性のあるレビュワーが段々とわかってくるのではと思いますね。


 ところでここからが本題です。残念ながらここまでは前置きでした。

感情・感覚を主体で語った主観性での感想文、それはそれで書くことは悪いことではないのです。自分のためになりますから。
ですが、そんな感想文をあたかも評論であるかを装ってネットで不特定多数に公開する人がいるのも事実です。もちろんゲームブックのレビュワーにもいたりします。

感想文を構成する「主観的」な「感」を主体にそれを「客観的」であるかのような表現するかのように書く方。割と多くいるものです。
「評論と感想の違い」について検索して回った多くのサイトのほとんどで指摘されていますが、皆さんこれを一番問題視されてました。

なんども書きました通り、「感」というのは個人的な主観論です。よって「感」は人それぞれ違いがあるものです。これは「価値観の違い」というものです。
その個人的な価値観、好み、趣味を主張するのは結構だとしても客観的に見たように「社会、そして万人がそう結論づけている」かのように装ったり、作品に対して自分の感情、感覚を基準に色分けして、それが専門家的な評価と位置付けたりしてアジテイションを引き起こそうと画策するのは、もはや他人の価値観を否定しているのにも近い暴言です。

 わかりやすく言うなら例えばカレーが嫌いだとして
「私はカレーが嫌いです。なので食べません。」と主張するだけなら、それは個人の好みであるので何も問題ありません。ですが、
「カレーと言うものはひどい味なので人間の食するものでない。食するものは脳に障害を持った人格障害者である。であるからカレーは口に入れないことが望ましい。」なんて表現されたら、
 「この人は自分の好みに合わないものは存在そのものも否定するのか」、「自分を中心に世界が回っていると思い込んでいる」とか普通は思いますよね。

 嫌いなら嫌いでも構わないと思います。しかしながら、自分が嫌いだから周りの人に対してお前も嫌いになれといった他人の価値観を否定し自分の価値観を押し付ける、そんな自己本意で行動している方がどの分野にもいます。「評論」であるかのような文章で伝える悪質な「感想文」を不特定多数に公開する傾向にあるため、前回記事にしたステレオタイプ層のごとく、文章をよく読まずにイメージだけで判断しがちな方はそんな「感想文」を読み専門家の「評論」であるかのように錯覚して、自分の好みを押し殺して一方的に宣伝された作品を一緒に評価したり、明確な理由なく作品を一方的に非難するケースもあるようです。中には作品が気に入らないからと匿名をいいことに作品でなく作者が人格障害であるかのような発言をするかわいそうな輩もいます。

 自分が気に入らないからとの理由をひた隠しにして遠回しに理屈を並べて真意を読み取れない人を騙し通せたとしても、ちゃんと文章の真意が分かる人には通用しません。むしろ憤慨すると思います。その作者さんをはじめ、多くの作家さんしかり、「評論と感想の違い」をサイトに記事にしている多くの方がこの手の暴挙に憤慨しています。もちろん私も同様にハラワタが煮えくり返るほど怒り心頭です。

 嫌いであることにも理由はありますが、その理由は「感」を主体とした主観的なものです。好き嫌いを論理的かつ客観的に説明しろと言われても「感」が主体である以上、客観的視点の論理は構築できません。無理です。先ほどの例えで出したカレーが嫌いな理由を聞いても主観的な理由しか出せないのと一緒です。好き嫌いは主観が元ですからね。民主主義国家において個人事情の価値観を他人に強制する権利など誰にもないのです。

 自分のために書く「感想文」なら個人的に好き嫌いとした判断基準で書いて必ずその理由を書く必要もないのかもしれないですが、「評論」として何か結論付け、それを他者に伝達する際にはそう結論付けるに至った根拠が必ず必要となります。その根拠も客観的かつ筋が通っていなければなりません。
 好き嫌いの「感」を主体に否定と結論付けるような人の文章を読めば一目瞭然なのですが、そういう方は根拠を全く書かないのですぐにわかります。根拠が自分の主観的な感情論であり説明しても筋が通らないのは本人も自覚していますので、質問しても言葉を濁したり逆に発憤されるかと思います。

 酷いケースになると内容関連を無視し、感想や評論で行われるべき論点とは違う「かなり別問題」な件を持ち出してきて、それが作品価値すべてであるかのように装っているケースもあります。この手のクレーマーは至る所で散見されるらしく、「評論と感想の違い」を取り上げている多くのサイトで「非常識」で「論外」と指摘されるほど非難されています。誤謬なのかどうかは知りませんし知りたくもありませんが、嘘の情報を理路整然と垂れ流して開き直っている方がよほど問題だと思うのです。それこそ「ずいぶん狭い世界で生きているんだなあ」とか「心の世界に、まだ自分しか住んでない人なのかな」と言うものなのかもしれません。その作家さんもそれに関して相当頭にきていると思いますので、そう言った表現もかなり抑えている方だとは思いますけどね。

 先ほども申し上げた通り、理由も根拠も論拠も提示せずに結論だけ書くひとは結構多いようです。Twitterなど文字数制限のある情報公開媒体が台頭したあたりからその手の表現力欠如の人が目立ってきたように思います。明確な根拠を書けるけど書かないのは別問題として、コンプレックスが露呈され、論破される恐れがあるから根拠も書けず、さらにそれをひた隠し通すのは「無責任」であり「卑劣」以外の何物でもありません。詭弁や誤謬を廃して筋を通した文章を書いているならいくらでも毒づいていいと思います。問題視されているのは毒づいているとかいないとかそういう次元の話ではないのです。

 不特定多数の方に提示する「評論」として受け手に価値観の共有を要求するのならば、それは客観的かつ公正な視野性で持ってかつ論理的に明示されなければならないでしょう。その順序を端折って結論だけ並び立てても何も共感は得られません。評論調に構成されていたとしてもそういうのは「感想」でも「評論」でもありません。ポジティヴに書かれているなら「質の悪いステルスマーケティング」ですし、ネガティヴなら「非難」や「悪口」のレベルです。そこまでくるともはや「悪意」しか汲み取れなくなります。もちろん文筆家としても「論外」です。少なくとも自分の発言に責任を持つのが文筆家や編集者の最低限のマナーですが、それすら守ろうともしません。

 受け手全てがそう言った文章の真意を汲み取って相手にしないのならまだしも、それを「評論」と勘違いして流されてしまう受け手がいる以上、充分に検証もされていない詭弁がまかり通ってしまう危険性をはらんでいるので、嫌なら見なければいいというのも違う気がします。もちろん業界の作品全体における価値観が偏る懸念だってあるかもしれません。そういう現状が表面化してしまえば大物作家が幻滅して離れていってしまうこともあるでしょう。現に今、そのサインが出ているように私は感じられてならないです。ニッチなゲームブック業界ならその兆候はもはや致命傷とも言えるかもしれませんよ。


とにかく

 作者のレベルを上げたいならば読者の作品に対する「感想」や「批評」のレベルも上げましょう。
質の高い「評論」ならば作者のモチベーションも上がります。
モチベーションが上がればさらに質の高い作品が生まれます。
質の高い作品が生まれれば読者へと還元されます。
そうやって作者と読者が相互に作用しあって同じ方向を目指すのがベターだと思います。


もちろんアンチ行為によってその逆のケースもあるわけです。

視野を広げ評論側のアプローチで作者のバックアップに回るか
一読者として感想を書くだけにとどまるか
悪意のある誤謬を撒き散らして破壊行為に勤しむか

私にその行動を押し付ける権限はないので、その選択は読まれている人それぞれで決めてください。

ですが、一体、誰がどのような結果を生んでいるかの把握だけはしておいたほうがよろしいかと思います。

 そのためにこの文章を読まれたみなさんは是非ともレビューなどの文も真意を見極めて自分で判断されてください。そして他人の意見には流されないよう「自分で考える」習慣をつけるとよろしいかと存じます。もちろん私のこの記事の内容もよく吟味して信憑性があるかどうかご自身で判断してみてください。この記事で挙げられた過去の記事も目を通してこのブログのテーマが一体何なのかを考察していただけたら幸いです。
posted by 文芸遊戯研究会 at 07:40| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする