2016年03月21日

「片想いからの脱出」終了

 脱出ゲームブック第5弾?(公式では姉妹品とされています)「片想いからの脱出」が終了しましたので、その「読書感想文」を書こうかなと思います。


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 ということで、今回も長文を提供したいと思います。

 というよりもだんだん自分の我が出てきたように思います。ある意味吹っ切れました。元々の自分がこんな理屈っぽい性格です。今までの自分が猫かぶっていた感じですね。それても私についてきたいという方はとことんお付き合いください。文戯研独特の世界に誘いましょう。


 姉妹品という位置付けの通り、「片想いからの脱出」という作品は前作の4作品とは全く違う特性だと考えてください。

 謎解き主体の前作4作品と比べ謎解きはあってないようなレベルです。
前に「聡明なスパイは耳がいい」の謎解きは簡単というような記事を書きましたが、今回の作品はそれ以上…というよりも比較にならないほどイージーな造りとなっています。

 ですので謎解きが苦手な方にもそれなりに楽しめると思います。謎解きが全くないわけではありませんが、個人的にはそれほど詰まることなく進めました。

 書籍の形ですが、必要なのはネット環境へとアクセスできるブラウザを備えたPCやスマホが必須となります。それがない方や持っていても全く使い方がわからないなどの方は無理かもしれません。
 ただ主人公が高校生という設定からも若い世代の男性をターゲット層としていますので、若い世代向きのツールを必須にしたところでそれが販売の足かせになるようなことはないかなと思われます。

 全体的には謎解きもありますが、インターネット環境を駆使して情報を収集する情報収集能力をゲームブック進展に使うような感じです。
 そしてゲームブックストーリー内のキャラクターがあたかも現実でネット世界に絡んでいるように、ネットのいたるところにその活動の痕跡を残しています。実際にいるかのような感じにも見られなくはないです。

 これはある種のヴァーチャルリアリティなのかもしれません。はたから見るとそんな仮想空間のキャラクターたちがネット上で存在をアピールしているのは滑稽といえば滑稽なのですが、なぜか仮想現実を味わっているかのごとく新鮮味があるのは不思議なものですね。私だけかもしれませんが。

 ということでこの作品の醍醐味は恋愛の疑似体験です。文章や展開は淡白な印象も受けますが、こういったアプローチもなかなか粋なものです。

 昔のコンシューマーゲームに「夕闇通り探検隊」というアドベンチャーゲームがありまして、中学生3人が仮想の街で犬の散歩で廻って様々な場所で起こる心霊現象を検証するという内容でした。
 主体はその怪奇現象を体験したり解決するゲームですが、なぜか犬の散歩そのものが私には楽しくなってきまして、本当にリアリティな感覚の街並の中を犬を連れて走り回って裏道に入り込んだり、街を歩く通行人に話しかけたりと、実際に街に繰り出して散歩すればできることが、なぜかゲームの中で行うとそれはそれで別の感覚があるものです。とはいえプレイヤーの私は中学生でもなければ犬も飼っていないし、道行く歩行者に気軽に話しかけたりはできないので、そのような現実ではできない過程の行動がヴァーチャルリアリティでは行えるため、それが新鮮味に繋がっているのかなと思ってます。

 ゲームやゲームブックしかりくだらない仕掛けだとは思いつつ仮想現実の世界を味わえる試みというのは、それはそれで確立された楽しみ方かもしれませんね。 

 自分で言うのもなんですが、「未来をかえる宝物」というゲームブックもゲーム性よりもそんなヴァーチャルリアリティを愉しむ方向性で作りました。昭和50年前後生まれの少年の当時の遊びをゲームブックで再現した形です。今となっては遊べないあの頃の世界へとタイムスリップして遊べればという意図で制作いたしました。
 もともとは電子書籍のゲームブック制作のためのサンプルとして作ったもので30パラグラフという制約を掲げて制作したものですが、くだらないと思われがちな仮想現実のシステムも、それなりに受け入れてくれる人もいたようで勝ち負けや白黒つける傾向のゲームで娯しむのとは別に世界観そのものを愉しむのもありかなと思うに至りました。

 
 「片想いからの脱出」も彼女のいない層にとっては恋愛の仮想現実がそれなりに味わえる演出もあるので、謎解き以外にそういう演出を親しむ愉しみ方もいいかもしれません。
 この本はそんな「未来をかえる宝物」同様、現実と空想を融合させて独特の世界観を作っています。「【Re:Love Letter】」の要素も含んでいる感じもしますが、どうなんでしょうね。作者の方、これらを読んだのかな? だとすればちょっと嬉しいかもw


 あと、この本は現代の若い世代をモチーフにしているため、トレンドを話題としています。TwitterやFacebookやLINE、そしてYouTubeなどのネットサービスと上手い具合に連携しています。

 そのため出版時の時代背景にかなり影響される傾向にあると思います。
 十年後に読んだらまた違った懐かしさのある媒体として愉しめる要素もあるかもしれません。
「あっ、この時代はまだTwitterで情報交換してたんだ。今はツイートなんて言葉は死語だよな。」なんて言われる未来もあるかもしれません。そうなると恋愛そのものを楽しむよりも書籍そのものの出版時代背景の懐かしさを味わう役割に代わるケースも無きにしにあらずですね。

 ゲームブックのみならず創作物でこう言った時代背景やトレンドを組み込んでしまうと、どうしてもこういった作品が受け手に与える感受性の変化が出てきたりします。それを懸念材料とするならはその辺も考慮して作らなければならないでしょう。

 案外IT関連のデバイスやネットサービス等のブームは以外と短命です。以前、mixiが台頭し始めた頃もこのサービスは今後の日本の主体となるだろうという意見も上がりましたが、今では下火となってしまいました。

 Twitterですら最近になって下火の兆候が出始めまして今更ながら文字数制限を取り払う動きも出てきました。
そうなると他のブログサービスの敷居に踏み込んで、同じ舞台で活動することになるので、おそらくここのポイントで現状維持するか衰退するかの変化点になるかとは思います。
 その他のサービスも踏まえて一生のトレンドとなるかどうかの信憑性は危ういものです。

 通信のデバイスでも時代とともに目まぐるしく変化しました。
 ゲームや映画、小説などでも二十年前のものではポケットベルやPHSを通信手段に使う話が書かれていましたが、今となって読んでみると時代遅れな感が否めません。
 十年前ならフューチャーフォンも台頭していましたが、スマートフォンやタブレットが主流となりつつある今、それすらも危うい現状なのかもしれません。
 そして今やウェアラブルデバイスが出てきました。十年後にはスマートフォンやタブレットも廃れてくる可能性もあるでしょうね。

 子供の時に雑誌の付録か何かのゲームブックでダイヤルQ2に電話をかけるなんて仕掛けがあったのも覚えてます。
内容やタイトルは失念しましたが、家族に内緒で電話をかけて請求書でばれて大目玉食らった経験あるので内容よりもそのことがインパクトが強く残っていたりします。
 それも時代の色が濃く出た出来事ですね。

 そんなトレンドや技術の変化によって逆に作りづらくなったジャンルもあります。推理小説です。

 昔と違い、携帯電話やスマホでGPS位置情報もつかめてしまいます。
密室に閉じ込められても通信機器で外部と連絡取れてしまいますし、外を歩けば街中は監視カメラの海です。車を走らせればNシステムは避けて通れません。
 一昔前の推理小説なんかも今の世界に置き換えてしまうと、情報通信機器が存在すれば破綻してしまうトリックも出てきます。電波の通じない雪山の山荘という設定なら考えなくてもいいのかもしれませんが。。。
 そういった情報通信機器の存在する現代社会での推理トリックを生成する場合は当然その手の情報通信機器やインフラの特性も熟知した上でトリック形成していかないと、詳しい人からありえないのではというツッコミも出てくるでしょう。
 それこそ突っ込まれないよう慎重にSF小説を書くような感じなのかもしれないですね。

 時代の変化というものが創作の壁となるか、はたまた逆に利用してトレンドのコンテンツを作るか。
 現代の作家さんには過去の作家さんにない能力が求められる傾向にあるのかもしれません。



 もう一つ、「片想いからの脱出」には先に進めるために情報をインターネットで検索して進めるという手法を取ってきました。

 これも時代の流れが生んだ新たな情報収集手段かと思います。

 インターネットがなかった時代には情報収集はというと、テレビや新聞、書籍が主で、家の文献にない情報を求めるには書店や図書館などに足を運んで情報収集したものです。

 そんな時代に重要視されていた能力が記憶力です。

 例えば1192年に何が起こったかと言えば鎌倉幕府が始まった年と記憶して、ではその時の征夷大将軍の名前を誤字脱字や間違いなく書けるかといった記憶力を持つ人間が「頭がいい」とされてきました。

 大学入試(特に文系)などもそんな記憶力をベースにした試験を展開していました。(今もその名残を汲んでいますが)

 とにかく、詳細な事項までいかに記憶できるかが人類の頭脳明晰の判断基準であるかのごとく、記憶力というのは重要とされてきました。

 そんな時代に有用なパズルとしてもてはやされたのがクロスワードパズルです。
 クロスワードパズルは行う相手の知識量を試す意味で、雑学から時代をかたどった事象に関していかに知識として記憶しているかを判断するためのパズルで一時期はそれがアナログのパズルのデファクトスタンダードでもありました。

 ところが今はすっかり成りを潜めて、存在はするもののあまり需要もなくなったようです。
 むしろ数独やピクロス(イラストロジック)などの方が今は人気のパズルとなりました。

というのも、クロスワードにて問題を提示しても今はインターネットで検索してしまえば簡単かつ瞬時に答えを導き出せてしまうのです。
 もともと記憶している知識量を試すためのパズルですが、知識を記憶していなくとも現代社会では「代替としての頭脳」から知識を引っ張り出せるのです。

 そうなるとクロスワードで解答を導き出して記入する行為はパズルゲームとしての側面よりも一つの作業のように認識されてしまい、そうなるとゲーム性としての楽しみも薄れて離れていく人も出てしまいます。

 要するに知識量のある人が頭の中の記憶から解答を引っ張り出すことと、知識は持たないがインターネットで検索してそれに見合った情報を導き出すことが結果的に同類となった今、記憶力という能力への期待性や優位性が過去と比べて下がったのは事実です。
 分かれば凄い分からないなら仕方がないの昔と違い、分かって当たり前分からなければググって調べろの現代です。

 クラウドストレイジサービスを展開するEvernoteのキャッチフレーズに「外部に第二の頭脳を持つ」と言ったニュアンスのキャッチコピーがありますが、スマホやタブレットなどの情報通信機器全般がそう言った「外部の頭脳」なのではと思いますね。

 もちろん全く知識や記憶力が不要という免罪符にもなりえませんが、利用するものはできる限り利用して結果オーライの合理性が崇拝される現代で「外部の頭脳」を駆使して結果を展開することは有効的な展開ともされています。
 いわば知識力や記憶力は機器の技術の進歩によりそれが高い人と低い人のスキルの差が狭まりつつあると言えるのかもしれません。

 そのような兆候のでてきた現代社会でたくさんの知識をいかに正確に記憶しても昔のように他者に対してあまり優位に立つということも無くなりました。ですから今後のIT化された社会でそのような能力の優れた人材が有効であると認められるケースも少なくなると見込んでいます。

 では現代で人と能力の差をつけ、現代社会で必要とされる人材となるにはどうしたらいいのか。

 難しく考える必要もありません。
どんなに情報通信機器の技術が進歩してもコンピュータでは全く入り込む余地のない、いわば人間が得意とする分野の能力を磨けばいいだけです。

それは何か?

 機械で代替できる単純な知識や計算の情報収集でなく、それらを応用して展開させるという発想力や創造力などのカテゴリーの能力です。
 これらの応用力から展開される創造、発想の能力は技術が進歩しようとも人間には勝てないと思います。

 創造、発想という言葉を聞くと絵画を描いたり音楽を作曲したり小説を執筆したりするクリエイティブ関連を連想してしまいがちですが、想像力、発想力を活かせる分野は何もそれらに限ったことではありません。

 例えば商品を企画開発する際にも有用ですし、
営業でのプレゼンテーションなどの企画、
そして事務や経理などのバックオフィスに置いても作業の効率化などのアイディア提起などに有用に働きます。
もちろんビジネスの他に人生でつまづいたり悩みを抱えた時にそれを打破するアイディアの構築にも役立ちます。

 こう言った応用を求められる作業はコンピュータにはできない分野ですので、その手の能力を磨いておくと会社から必要な人材と思われる一因になるかもしれません。

 ではその能力を磨くにはどうすればいいのか?

 完璧な解答までは出来かねますが、とりあえずこのブログの様々な記事を読んで「ゲームブック」を作成してみればいいと思いますね。

 作ったら投稿サイトなどで公開してみましょう。その作品に影響を受ける人となりが出てくるかもしれません。そうしたらそれを糧にステップアップして影響を受けさせる人数を増やす努力をしましょう。

 ゲームブック作成を楽しみながら創造力、発想力を磨けたりするものです。

 この時、決して人と比べたりするのはやめましょう。
ナンバーワンを目指すのではなくオンリーワンを目指すのが長続きする創作家のポリシーです。
「ゲームブック作成ノススメ」という記事でも書いたことですが、あなたの作品はあなたにしか作れないものです。ですからあなたのライバルは他の誰でもなく過去のあなたです。創作というのは孤独なレースなのです。

 前の記事でも書いたことですが、誰でもできることというのは誰でもいいという理由にもなります。誰でもいいということは何もあなたでなくてもいいということで、それはあなたの仕事そのものを否定することにもなるのです。そうなると何か変化が起きた時に不利になれば捨てられる可能性も出てきたりします。

 ですので自分でなければできないという分野を一つ構築しておくと自分的に優位に働くと思います。
 何も職業的なものだけでもなく、趣味の一環として創造、発想が活かせるカテゴリーに身を置くというのもアリでしょう。ゲームブック作成で磨いた想像力や発想力がふと自分のビジネスで有効的に働いたということも出てくるかもしれません。
 それが応用というものです。

勤め先の会社から「あなたでなくては任せられない」との回答を引き出せればしめたものですよ。

 ゲームブックに限ったことでなく、絵画を描くとか小説や音楽を創作するというのもいいかもしれませんが、ゲームブックには選択肢を創造するという特殊な創作が入るので、自分を見つめ直すという意味でもオススメです。
posted by 文芸遊戯研究会 at 00:14| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月20日

「評論」と「感想」の違い



コメントにてブログの終了に関しての要望をいただきました。

こんな大したコンテンツも用意できないブログにコメントがつくだけでもかなり感銘的です。

のちに改めてお話ししますが、正直な所デジタルツール関連の記事はあまり需要も少ないようなので終了する予定です。
私にも時間を有効に使いたいという考えがありまして、どうせなら有意義なことに時間を割きたいとの結論に至りました。

もしこれらのコンテンツを新たに記事として提供されたいという方がおりましたら引き継いでいただけると幸いです。
思ったより大した知識は必要としません。この手のコンテンツは文戯研でなくても作れます。要するに私でなければいけない理由がないのです。

それらのコンテンツの新規配信は残念ながら終了の方向で固まっています。

一応、文戯研は文戯研でしかできないことに限定して尽力していく予定です。それには一回りセットしてまっさらなゼロからリスタートしたいという考えもありまして、それでブログ終了を一時決めましたが、まさか継続のご要望が複数の方々から出されるとは思っていませんでした。

ということで今後の予定をどうするかは改めて検討中です。

 そのコメントで知ったのですが、以前にこのブログでデジタルアドベンチャーシートを制作したあの「送り雛は瑠璃色の」を執筆された作者の方がゲームブックのレビューをされていたようです。
さすが奥の深い作品を創作される方は評論も奥が深いものですね。レビューされている作品は所持しているので改めて読むとして、


今回は評論について記事にしたいと思います。またゲームブック関連の記事ではなくてごめんなさいね。ゲームブック関連の知識が欲しい方はここで終了です。
これから長くなりますよ〜覚悟してくださいね〜
と言うよりもある傾向の人を避けるためにあえて長文にしています。


ネットを徘徊しているとゲームブックのレビューに関しては作品の数以上に見つかります。
前回の記事でゲームブックそのものも様々な質があり、対象とする読者層も様々に枝分かれしている記事をエントリーしました。その際、玉石混合という表現を使わせていただきました。

ゲームブックそのものに限らず、そのレビューもピンからキリまで玉石混合の世界です。いわばレビューも質の良いものから酷なものまで多々あるということです。ゲームブックも小説も文芸ですが、それを批評するものも当然文章であることから文芸になるのかもしれません。文芸というからには創作物の一環であり、当然様々なクオリティで色分けされても致し方ないのだと私は考えてます。


 そこで、唐突ですがこれを読まれているみなさんは「評論」と「感想」に関してどのような違いがあるのか考えてみたことはありますでしょうか?
 明確な定義らしい定義があるのかといえば辞典に掲載されているのだからあると思いきや、それも少々曖昧な表現で一体全体何処で区分けすれば良いのか不明確な部分もあります。

 よって、検索してみるとこの手の話題はいたるところで取り上げられています。

 そういった情報を元に大まかな範囲で共通する事項を自分なりに選別してみたところ、
「感想」は文字の通り感じたこと想ったことを指しており、書き手個人の感覚や感情を踏まえた主観的な意見で、
「評論」は文字の通り評価を論ずると書きます。感想とは対照的に客観的な検証で論理的に考察した話をするのが評論のようです。
(個人個人によって解釈が違うのかもしれませんが、ここでは大まかにそんな感じとして推測し話を進めます。)

 人は何か外的な事象や人を判断するときにそれが内向的に働くか外向的に働くかの方向性が決められ、そして感覚・感情・思考・直感の四つのうち自分が主体としている機能を優先的に判別・判断を下します。かの心理学者のユングが提唱した分析論です。
ゲームブックなどの文章を親しむ際にもこの手のクセが色濃く出てきます。

 感覚・感情による部分は(直感もですが)個人によって様々に形が変わります。作品を読んで感情を揺さぶられたり、感覚的なものを感じたり、あるいは直感で何かを感じたり。それはとても有意義なことでもあります。そういう「感」が作品と触れ合うことで大きく揺さぶられれば揺さぶられるほどその読者にとってその作品の印象が強く残ります。(二年ほど前の「受け手に変化を与えるもの」の記事で取り上げた内容です。)

 それはそれで人間として当たり前のことなのですが、そういった「感」は個人個人によって千差万別に作用します。要するにとらえ方は十人十色ということです。よって自分の「感」を主体に事象を説明したところで「主観」の色が強く出てしまうことです。例えば自分が面白いと感じでも他人はそう感じないという人がいるように、感情・感覚は抱く当人の性格や人格などの個性で方向性が変わってきてしまう傾向なのです。よって人それぞれ感じ方が違うものであり、それを文章で表現したところでどうしても自分視点の表現とみなされます。そういうものを「主観」と呼びます。(常識や人間心理の特性から客観的な「感」というものもありますが、ここではそれを論点としません)「好み(趣味)」なども「感」が影響してしまう色合いは強いです。


 「思考」というのは「感」という文字が入らずに変わりに「考」の文字が入ります。以前の記事で書いた通り「考える」ということは否定から入ります。人としてどうしても「感」は入ってしまうものですが、「感」で結論付けられた自分の心境をあえて否定し、感覚や感情をできるだけ通さずに論理だけで解釈します。

論理とは理にかなっていなければならない論であり、自分からの視点で見ても、他者からの視点で見ても同じ解釈として納得させられることが最終目的です。
もちろん筋が通っていなければ相手は納得しません。さすがに万人に理解されるとなるとそれはそれで究極的な次元の話にはなりますが、非現実的といえども論理はその「究極」をできる限り目指して「考察」そして「検証」して「究極」である最終的な理想形にする必要性があります。
 極論は抜きにしても、論理は自分や他人の共有の認識として通さないと論理とは言えません。そう言った観点から「客観的」でないと論理的とは言えないと思います。


人間の心理がベースとなっている以上全てが全てそのような傾向とは限りませんが、ここではその傾向が強い方向と解釈して話を進めます。


 では話を「評論」と「感想」に戻しましょう。

ゲームブックに至らず、小説や映画などの創作物含めてレビューされるときに「面白かった」「ムカついた」「笑った」「泣いた」という単語は多く見られます。これらは「感」によるものです。これらは人によって感じ方が変わる可能性を秘めています。「感動したというけど僕はあまり心を打たれなかったな」とか「笑っている人がいるけどどこが面白いのだろう」という感じ方をされる人がいることからも受け手の「価値観の違い」が現れています。よって書き手の個人の「感」を主体とした主観で書かれています。
 あとレビューの関連に多く見られるのが「あらすじ」を掲載すること。たとえば「主人公は内閣情報捜査室のスパイとして敵国に忍び込み…」と言った作品内の事象のみを説明したもの。これは「客観性の高いもの」として述べられているものですが、「考察」は入っていません。あくまで作品内の顕在情報を文章として伝達しているだけにすぎません。
 
 こういった個人の所感を主観的に書き綴ったものが「感想」です。ゲームブックのレビューで言うのなら「読書感想文」です。
「読書感想文」は学生の頃に誰もが書いたように勉学に必要な要素を持っています。何が勉学になるかというかというと自分の個性や気持ちを文章として表現することで自分のパーソナリティを再認識及び自覚する意味合いもあります。自分のために書くことそのものに意義があるものです。

 それはごもっともなのですが、他者や作者が目にしたときにはあまり役に立たなかったりします。あくまでその感想を書いた人物が個人的に感じたことなんかは「その人はそう感じたんだな」の一言で片付けられてしまいますし、あらすじなんかは実物を読めば済むことであって必要な情報でもありません。


 「評論」は「感」が入ることもありますが、主体はあくまで客観的にその作品および受け手の変動性を検証する形で「考察」が入ります。「考察」自体は作品そのものに含まれている情報ではなく、作品を目にした受け手が自ら考えて結論付けた創作物の一つです。感想にも考察は入ることはあるので一概に色分けはできませんが、評論に関しては考察していかないと評論にはなりません。それらは創作物の色合いが強く現れます。創作物というからには当然、さらにそれを読まれた受け手を動かす要素も十二分に含まれる可能性もあるわけです。
 受け手を動かす要素のある作品を書ける人は当然、同じような要素を持つ創作物の色合いの強い評論も書けたりします。受け手を動かす要素というのは「考える能力」も必要とされると思います。考えなければインパクトのある作品も作り出せませんし、考察しなければ「評論」なんてできず、ただの「読書感想文」しか書けません。奥の深い「評論」が書けない人は奥の深い作品も作れません。


 奥の深さと抽象的に述べましたが、一体どういう意味なのでしょうか。

 個人的な意見ですが、作品にも顕在的なものと潜在的なものの階層が存在するということです。顕在的というのはストーリーなどで公にされている情報で、潜在的というのは裏設定みたいなものです。大体の物語は時系列が進むことによって潜在的なものが段々と顕在化される傾向にありますが、最後まで潜在したままの情報もあります。その潜在の階層の最も奥底にありそれのプラットフォームというか土台に当たるものが、「テーマ」です。(人によって呼び名が違うと思いますが、私はそれをテーマと名付けています)

テーマというのはその作品における骨組みであり、究極的な表現で言うなれば「本質」です。作り手の「本心」というか「個性」が含まれているとも言えますね。会話なんかもこのような「本心」や「真意」がベースに組み込まれていたりして、それを察して考えながら相手の心理を読むという経験は誰にでもあるでしょう。作品の本質性というのも同じようなものです。
 この「本質」が明確に骨組みされていなかったり簡単によまれてしまうようだと全体が薄っぺらい作品になります。涙頂戴的な偽善作品とかですね。逆に完全にテーマを潜在階層の奥底に隠し通して考えないとそう簡単にわからせないように設定する作品もあります。ゲームブックでいうなら「永劫選択」がその兆候に近いかなとは思います。そういう作品はうまくハマるとミステリアスと印象付けられます。ただそこまでするにはそれなりに「考えて」作らないと難しいでしょうね。無論読み手の層も選んでしまいます。

 テーマというのは作者が訴えたいことでもありますが、基本的に作り手が作ろうと思うに至った欲求も孕んでいます。伝えたい、もしくは儲けたいなどの欲求です。創作するのにも作りたいという欲求から働いています。手が勝手に動いて作ってしまったんだよなんていう作家はいないように、何かしら理由があって創作物を生成しているのです。その理由というのが「本質」として現れるものだと解釈しています。最終形態的なものはその本質的なものを受け手と共有したいという欲求なんだなと思います。いつか書きましたが「売り上げる」ことそのものがテーマとして色濃く現れている作品もあります。「適当なこと言ってんじゃねーよ」と思う方はそれでも構わないのですが、少なくとも書き手も読み手も必ず理由があって書いたり読んだりしていることは事実です。決して手が勝手に動いたわけではございません。

 「本質」に関しては作品や作者の個性によって様々に展開されるため、一体どんなものなのかの情報は書きません。
ただ一つ言えるのは深い「評論」ほどテーマに踏み込んでいるということです。テーマを読み取れたか否かでその作品から得られるものは全くと言っていいほどに変わってきます。
1000の作品を見たり読んだりして上辺のあらすじを記憶したり、個人的な感情や感覚をただ書きつらねるよりも、10の作品を論理的に考察してテーマを検証した方が最終的に自分への糧となるものが大きいかもしれません。本質というものを見極めるとなぜその創作物を作るに至ったのかの作り手の個性が垣間見れます。それはものすごいほどに自分のパーソナリティーの向上にプラスに働くものです。もちろん生活上の選択肢も増えてきますし、ゲームブック作成能力にも反映されていくでしょう。

 作り手としてはテーマを読み手に読み取ってもらいたいという要求も持っていたりします。昔に言語や文章はあくまでコミュニケーションの道具であると書きました。ゲームブックしかり創作物も最終的な目的はコミュニーケーションとしての伝達にあると個人的に思っています。何度も書きますがテーマが作り手の本心ならそれが最終的に受け手側へと伝達しそれの共有や共感に繋がることが、作者の欲求の根本的な階層にあるのではと考えています。

 逆に受け手が捉えたテーマが作者の意図するところとは違っていたとしても、その推論自体は読書感想文とは別次元の創作物としての価値もあるため読まれた読み手を動かす作用もあるでしょう。受け手が論理的に考察してどれだけテーマに近づけるか。それもある意味芸術というジャンルに対する親しみ方の一つなのかなと自分は思ってます。

  ですが、作者が求める読者層と実際の読者層は必ずしも一致するとは限りません。テーマについて検証しないで上辺だけ見て感情論を語っても作者には不本意に映る場合だってあるでしょう。「ものがたり」として書いたのにゲーム性がないだのハッピーエンドじゃないと嫌だの、そりゃ不本意でしょう。ゲームブックだって様々なアプローチの仕方があると思うのです。それを主観的な感情・感覚でひとくくりして「あんなのゲームブックじゃない」だの「ゲームブックから一切手を引け」みたいな脅迫文を送られもしましたが、私だって不本意でならないです。


 最終的に「評論」というのはテーマを見出していることか否かということは重要かと思います。上辺では見ることのできない潜在的な本質を見れるということは客観的な視野性でもって、さらに幾重にも考察を繰り返していかないとなかなかたどり着けません。
 もちろんそのためには多角的な視野性が必要不可欠となります。

多角的な視野性とは何か?
読んで字の如くそのまま視野の広さです。
人と人との価値観の違いを尊重した上であらゆる角度から検証することで客観性で判断できるようになる能力です。

 今回の「送り雛は瑠璃色の」を執筆された作者さんのゲームブックレビューでは本人が自ら作成公開されている身であることから、「作者側の視点」と「読者側の視点」の双方から検証しています。
これが作成公開していない読者でしかない存在だと「読者側の視点」での単一方向からでしか見れません。

 その他様々な知識や経験などを活かした視点を自分の中に構築することにより、一つの事象や作品でも様々な角度から検証できるようになります。視点が多く、視野が広ければ広いほど「客観性」は増します。そして対象作品のテーマにも踏み込んで語られています。
 以前の「ゲームブック作成ノススメ」という記事を書いた根本的原因もこう言った視野性の拡大の推進を意図してエントリーしたものです。

 以前書いた「ブレインストーミング」と原理は一緒で視野性を広げれば今まで見えなかったものも見えてきます。視野とはライトのようなもので多く広がって配置されていれば作品の階層の奥底まで照らせるようになります。もちろん奥底に潜むテーマを読み解くに重要な武器にもなりえます。

 ですからもし「評論」らしい「評論」をされたいならば読者視点だけでなく、作者視点での検証も必要ですし、視野性を広げたいならば過去の記事から何度も言っている通り固定観念やイメージに固執しない考え方が必要になるわけです。視野性が低ければ「主観的」な感情・感覚論でしか書けず、そうなればアウトプットされるのはただの「読書感想文」程度のものでしかないのです。

 プロ野球の中継などで解説されている方も元プロ野球選手です。外野でヤジを飛ばしているだけのファンに解説させるということはありません。仮にそう言った人に解説させても「バカヤロー」「何で打たねえんだー」なんていう感情主体の罵声のみでしょう。そんな罵声は誰でも言えることです。誰でもできるということは誰でもいいということになります。誰でもいいというのは場合によっては存在が要らないということにもとれます。そんな風に言われるのは自分でしたら自殺するくらいに屈辱ですね。
実際に解説されている方は経験と得た知識を駆使して「考察」した「論理」を提供しているわけです。それだけ幅広い知識と経験は有効に作用するのです。

 もっとわかりやすく例えるなら料理人の味見です。料理に関して食べるだけの人と料理人では同じものを口にしても口にする言葉は違ってくるでしょう。「おいしかった」「味が残るようだ」などの抽象的な感覚論に終始する食べるだけの人に対して、料理人なら「隠し味に赤ワインを少し足しましたね」とか実際の経験をもとに作り手の視点から物事を見ることもできるわけです。

 作成なんてそんなの面倒だという方は読者の視点で「読書感想文」のみを提供するということに終始するものいいのかもしれません。
 ですがその感想文で何か外的なものを変えるとか動かすといったことはできません。感想は自分のためにはなるものの外的にはあまり説得力を構築しません。なぜなのか。これまでの文章を読み返して考察すれば一発で判ることです。おそらく創造力や発想力も身につかないでしょう。ただのベンチ外のまま一生を終えるだけです。


 ゲームブックのレビューを目にされる際は以上のことを踏まえて判断してみると新しい発見が垣間見れると思います。
感情や感覚主体で主観的に上辺だけの話をしていないか。逆に作品のテーマを考察しているか。
創作物としての価値のある「評論」と個人的な所感に留まる「感想」を判別してレビューのレビューを行ってみると、その人となりの学識が丸わかりになると思います。それこそ面白いぐらいに。
その中で信ぴょう性のあるレビュワーが段々とわかってくるのではと思いますね。


 ところでここからが本題です。残念ながらここまでは前置きでした。

感情・感覚を主体で語った主観性での感想文、それはそれで書くことは悪いことではないのです。自分のためになりますから。
ですが、そんな感想文をあたかも評論であるかを装ってネットで不特定多数に公開する人がいるのも事実です。もちろんゲームブックのレビュワーにもいたりします。

感想文を構成する「主観的」な「感」を主体にそれを「客観的」であるかのような表現するかのように書く方。割と多くいるものです。
「評論と感想の違い」について検索して回った多くのサイトのほとんどで指摘されていますが、皆さんこれを一番問題視されてました。

なんども書きました通り、「感」というのは個人的な主観論です。よって「感」は人それぞれ違いがあるものです。これは「価値観の違い」というものです。
その個人的な価値観、好み、趣味を主張するのは結構だとしても客観的に見たように「社会、そして万人がそう結論づけている」かのように装ったり、作品に対して自分の感情、感覚を基準に色分けして、それが専門家的な評価と位置付けたりしてアジテイションを引き起こそうと画策するのは、もはや他人の価値観を否定しているのにも近い暴言です。

 わかりやすく言うなら例えばカレーが嫌いだとして
「私はカレーが嫌いです。なので食べません。」と主張するだけなら、それは個人の好みであるので何も問題ありません。ですが、
「カレーと言うものはひどい味なので人間の食するものでない。食するものは脳に障害を持った人格障害者である。であるからカレーは口に入れないことが望ましい。」なんて表現されたら、
 「この人は自分の好みに合わないものは存在そのものも否定するのか」、「自分を中心に世界が回っていると思い込んでいる」とか普通は思いますよね。

 嫌いなら嫌いでも構わないと思います。しかしながら、自分が嫌いだから周りの人に対してお前も嫌いになれといった他人の価値観を否定し自分の価値観を押し付ける、そんな自己本意で行動している方がどの分野にもいます。「評論」であるかのような文章で伝える悪質な「感想文」を不特定多数に公開する傾向にあるため、前回記事にしたステレオタイプ層のごとく、文章をよく読まずにイメージだけで判断しがちな方はそんな「感想文」を読み専門家の「評論」であるかのように錯覚して、自分の好みを押し殺して一方的に宣伝された作品を一緒に評価したり、明確な理由なく作品を一方的に非難するケースもあるようです。中には作品が気に入らないからと匿名をいいことに作品でなく作者が人格障害であるかのような発言をするかわいそうな輩もいます。

 自分が気に入らないからとの理由をひた隠しにして遠回しに理屈を並べて真意を読み取れない人を騙し通せたとしても、ちゃんと文章の真意が分かる人には通用しません。むしろ憤慨すると思います。その作者さんをはじめ、多くの作家さんしかり、「評論と感想の違い」をサイトに記事にしている多くの方がこの手の暴挙に憤慨しています。もちろん私も同様にハラワタが煮えくり返るほど怒り心頭です。

 嫌いであることにも理由はありますが、その理由は「感」を主体とした主観的なものです。好き嫌いを論理的かつ客観的に説明しろと言われても「感」が主体である以上、客観的視点の論理は構築できません。無理です。先ほどの例えで出したカレーが嫌いな理由を聞いても主観的な理由しか出せないのと一緒です。好き嫌いは主観が元ですからね。民主主義国家において個人事情の価値観を他人に強制する権利など誰にもないのです。

 自分のために書く「感想文」なら個人的に好き嫌いとした判断基準で書いて必ずその理由を書く必要もないのかもしれないですが、「評論」として何か結論付け、それを他者に伝達する際にはそう結論付けるに至った根拠が必ず必要となります。その根拠も客観的かつ筋が通っていなければなりません。
 好き嫌いの「感」を主体に否定と結論付けるような人の文章を読めば一目瞭然なのですが、そういう方は根拠を全く書かないのですぐにわかります。根拠が自分の主観的な感情論であり説明しても筋が通らないのは本人も自覚していますので、質問しても言葉を濁したり逆に発憤されるかと思います。

 酷いケースになると内容関連を無視し、感想や評論で行われるべき論点とは違う「かなり別問題」な件を持ち出してきて、それが作品価値すべてであるかのように装っているケースもあります。この手のクレーマーは至る所で散見されるらしく、「評論と感想の違い」を取り上げている多くのサイトで「非常識」で「論外」と指摘されるほど非難されています。誤謬なのかどうかは知りませんし知りたくもありませんが、嘘の情報を理路整然と垂れ流して開き直っている方がよほど問題だと思うのです。それこそ「ずいぶん狭い世界で生きているんだなあ」とか「心の世界に、まだ自分しか住んでない人なのかな」と言うものなのかもしれません。その作家さんもそれに関して相当頭にきていると思いますので、そう言った表現もかなり抑えている方だとは思いますけどね。

 先ほども申し上げた通り、理由も根拠も論拠も提示せずに結論だけ書くひとは結構多いようです。Twitterなど文字数制限のある情報公開媒体が台頭したあたりからその手の表現力欠如の人が目立ってきたように思います。明確な根拠を書けるけど書かないのは別問題として、コンプレックスが露呈され、論破される恐れがあるから根拠も書けず、さらにそれをひた隠し通すのは「無責任」であり「卑劣」以外の何物でもありません。詭弁や誤謬を廃して筋を通した文章を書いているならいくらでも毒づいていいと思います。問題視されているのは毒づいているとかいないとかそういう次元の話ではないのです。

 不特定多数の方に提示する「評論」として受け手に価値観の共有を要求するのならば、それは客観的かつ公正な視野性で持ってかつ論理的に明示されなければならないでしょう。その順序を端折って結論だけ並び立てても何も共感は得られません。評論調に構成されていたとしてもそういうのは「感想」でも「評論」でもありません。ポジティヴに書かれているなら「質の悪いステルスマーケティング」ですし、ネガティヴなら「非難」や「悪口」のレベルです。そこまでくるともはや「悪意」しか汲み取れなくなります。もちろん文筆家としても「論外」です。少なくとも自分の発言に責任を持つのが文筆家や編集者の最低限のマナーですが、それすら守ろうともしません。

 受け手全てがそう言った文章の真意を汲み取って相手にしないのならまだしも、それを「評論」と勘違いして流されてしまう受け手がいる以上、充分に検証もされていない詭弁がまかり通ってしまう危険性をはらんでいるので、嫌なら見なければいいというのも違う気がします。もちろん業界の作品全体における価値観が偏る懸念だってあるかもしれません。そういう現状が表面化してしまえば大物作家が幻滅して離れていってしまうこともあるでしょう。現に今、そのサインが出ているように私は感じられてならないです。ニッチなゲームブック業界ならその兆候はもはや致命傷とも言えるかもしれませんよ。


とにかく

 作者のレベルを上げたいならば読者の作品に対する「感想」や「批評」のレベルも上げましょう。
質の高い「評論」ならば作者のモチベーションも上がります。
モチベーションが上がればさらに質の高い作品が生まれます。
質の高い作品が生まれれば読者へと還元されます。
そうやって作者と読者が相互に作用しあって同じ方向を目指すのがベターだと思います。


もちろんアンチ行為によってその逆のケースもあるわけです。

視野を広げ評論側のアプローチで作者のバックアップに回るか
一読者として感想を書くだけにとどまるか
悪意のある誤謬を撒き散らして破壊行為に勤しむか

私にその行動を押し付ける権限はないので、その選択は読まれている人それぞれで決めてください。

ですが、一体、誰がどのような結果を生んでいるかの把握だけはしておいたほうがよろしいかと思います。

 そのためにこの文章を読まれたみなさんは是非ともレビューなどの文も真意を見極めて自分で判断されてください。そして他人の意見には流されないよう「自分で考える」習慣をつけるとよろしいかと存じます。もちろん私のこの記事の内容もよく吟味して信憑性があるかどうかご自身で判断してみてください。この記事で挙げられた過去の記事も目を通してこのブログのテーマが一体何なのかを考察していただけたら幸いです。
posted by 文芸遊戯研究会 at 07:40| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月13日

「聡明なスパイは耳がいい」終了

春も近づいてきました。
相変わらず仕事が忙しく、なかなか暇が見つかりません。
これからも多分暇はなくなるでしょう。ゲームブック作成関連の記事に関してはあまり期待しないでください。このブログ自体がもうオワコン状態ですから。よって今回も自由気ままに書かせてもらいますね。読みたくなければ読まなくても結構です。


ゲームブック作成のブログを立ち上げたものの、書くことが無くなって脱出ゲームブックのレビューを書き始めた記事も、結構ゲームブックのカテゴリーから脱線した内容をつらつらと書く状態にまでなりました。
今回も脱出ゲームブックのレビューの他に余り関係ないことをつらつらと書こうかなと思ってます。つまらなかったり不快でしたら途中切り上げて貴重な時間を無駄にせぬようよろしくお願いします。


「聡明なスパイは耳がいい」を終了いたしました。


1.jpg


謎解きで詰まることもなく、なんかあっけないほど簡単に終わってしまいました。
前回の「十人の憂鬱な容疑者」がかなりシビアだったためか、それを反省点にわかりやすい謎解きにしたのかもしれません。そして、ヒントを記載した袋とじも用意してあります。
ただ、自分はその袋とじを全く開けることなく、快調に謎を解いていき、最後の謎もあっさりと見つけてあっけなく終わりました。

前作ではつまづきながらも謎を解いた瞬間の爽快感が忘れられなくて、今回もそれを期待していたのですけどね。ですが自分みたいな謎解きマゾヒストはマイノリティなのでしょう。やはり前作は難しすぎた印象があったようです。
難しさで言えば「十人の憂鬱な容疑者」がダントツで次に一弾の「人狼村からの脱出」、そして第二弾の「ふたご島からの脱出」とこの「聡明なスパイは耳がいい」が来るような感じですかね。

今回の「聡明なスパイは耳がいい」の特徴は聴覚を使って謎解きを行う企画が施されています。書籍にCDが封入されていまして、文中の指示にトラック番号が記載されていて、読書と同時に音源を聴くという一風変わった方式を取っています。だいたい書籍というのは視覚情報だけで認知していきますから、それに聴覚を加えるというのはそれなりに新鮮味のあるものでした。

小説というのは言語情報(ものによっては挿絵もありますが…)のみで展開されるので主に読者の左脳だけで処理されます。これまでの脱出ゲームブックは視覚情報で右脳左脳を刺激してきましたが、今回は視覚情報も
含めて右脳左脳を刺激しなければなりません。それゆえに感性も求められます。
こればかりは苦手な人と得意な人で二分化されるかもしれません。
 音楽に携わっている人ならば多少そういった感性はあるのかもしれないですが真意のほどは不明です。少なくとも私は結構昔ですが一時的にオーケストラに在団して楽器を奏でていた時期もあったので、その感性が役に立ったのかもしれません。

 どういうことかというと、時間的制約のない静的な視覚情報と違い、音源を介するものは時間的制約が課せられます。繰り返し聞けば問題ないのですが、音源というのは一つの情報を静的にそこに提示したまま留めておくということができません。ゆえに集中力と認知判断のスピード性が新たに求められるわけです。それだけでも今までのアナログのゲームブックと違いアクション性を帯びたという感じでしょうか。


 CDにはあの「くるり」の主題歌が提供されています。物語そのものも音や音楽を主体としたテーマを盛り込んでます。
 本文自体も前作までの三作品と比較してストーリー性も若干ですが増えました。各パラグラフでの選択肢も増えて迷路を探索する場面もあります。

その代わり付属品を使った大掛かりな仕掛けというのは、若干減ったような感じですね。ほとんどの謎解きはCDの音源を聴くことを指示しています。自分は音源を圧縮してタブレットに放り込んでそれを聞きましたが、SCRAPの事だから絶対CDそのものも物理的に利用する謎解きを用意しているのではと睨んでCDそのものも一緒に持って読んでいました。

 それがビンゴだったのか外れだったのかはここで言えませんが、付属品全てを使用する謎解きはありますよとだけ伝えておきます。

ゲームブック的なもので音源を主体にしたもの…というか音源のみのゲームブック的なものも昔にはありました。セガサターンで販売された「リアルサウンド 〜風のリグレット〜」という作品ですね。
ものすごいこだわりようで画面には何も映らずに真っ暗で音楽と音声がナレーション付きでドラマ風に展開されます。選択肢に差し掛かるとチャイムの音が鳴ってそれぞれの方向ボタンを押すことで選択肢の内容が読まれるというシステムでしたが、これも静的に情報開示できず視覚情報なしに動的に展開されるため、駄目な人は受け付けず賛否両論分かれた作品でした。当時知り合いだった映画評論家なんかはこれだけのシナリオをなぜ映画にしないのだと憤慨していました。映画にしたら選択肢が設けられないでしょうと反論しましたが。。。

 多少の選択肢や展開の波は以前よりもレパートリーが増えたものの、謎解きが主体でストーリーはオーソドックスなものです。静的コンテン主体のアナログゲームブックに動的コンテンツを融合させるというのは中々面白い試みではありましたが、ここいら辺はやはり人によって好みが分かれる部分でしょうか。謎解きがそれほど難しくなかったのはその辺を考慮しての配慮なのかもしれません。さすがにシー○スみたいに絶対音感を要するような謎解きがあったらそれはそれで鬼ですが。。。



 しかしながら、本に袋とじがあるとなんかワクワクしてしまうものです。今回は全く必要性を感じなかったため開けようとも思いませんでしたが、難解な前作に袋とじが付いていたら開けていたのかもしれません。

ところで
袋とじというと一つ変わった情報をネットで見つけました。あるブログである作品のレビュー記事を偶然見かけたのですが、それにコメントされている方の感想に興味深いものを見つけました。その作品の文章力を疑問視する話題から始まって、さらには一つにまとめられるパラグラフを連番で二つに分けて150くらいのパラグラフの作品を300くらいにしているという情報でした。興味を引いたのはその後の話でパラグラフを無理矢理分割している理由が袋とじに記載されているものと思い、袋とじを開封したら謎解きの解答でもないただの後日談だったというコメントでした。

 私はその作品のことはよくわかりませんので真意のほどは不明ですが、少なくともそういう風に感じられた人がいるということにはそれなりの原因があるのでしょう。検証する時間が私にはないのでそこから話を展開させていただきますが。


 世の中、様々な商品が売られています。どのようなカテゴリーの商品でも玉石混交の世界です。

 よく、ゲームブックが廃れた原因に質の悪いゲームブックが横行し始めたという意見も聞かれますが、それは小説でも映画でもどの分野でも同じです。様々な分野の製品にピンからキリまでの程度があります。ゲームブックだけに限った話ではありません。

 それに嗜好性の高いものはどうしても人によって好みの違いがあります。自分も脱出ゲームブックを評価していますが、人によっては全く受け付けない人もいますし、自分が立ち読みして苦笑して購入に至ってすらいない作品を大絶賛している人もいます。嗜好性の高いものは価値観の違いで好みが結構大幅に分かれてしまう傾向にあるため、自分が読んで質が悪いから他の人が読んでも質が悪いと思うだろうとの判断は案外、信憑性が低いものです。

 しかしながら、大勢に支持されている作品もありますし、先ほどのコメントにあったような作品などもあるようです。
こればかりは世の中の定理というか致し方ないように感じます。どのような商品でもある一定の需要が見込めると他社から似たような製品が出されます。脱出ゲームブックだって劣化コピーと言われるようなクオリティの作品が出ないという保証もありません。外食一つ挙げたって格安の大衆食堂から三ツ星レストランまで多々あります。

 ただ個人的に思うことなのですが、どのような分野の製品であれ商業という名の法則に則っています。要するに儲けるために物を製造販売しているという点です。慈善事業や趣味に限定して行なっているものとは別にほとんどの営利団体は儲け主体で物を売っています。その中でも売れさえすればそれでいい、売ってしまえばこっちのものという商法も認められています。
 主にリピーターが最初から見込めない一見さんや観光客相手の商売や、商品自体をよく知らない層や疑いを持たない層相手、その本体の価値とは別のネームバリューや商品価値が最初から伴っている商品(例えばコレクター向け商品や有名アイテムとのコラボもの)などは、どのようなクオリティでもある一定の需要は確保できるため、そう言った商法で提供するケースも多いです。

 極端な例ですが中身の上面が見える弁当を買うとしましょう。ウィンナーが二本入っているのを確認して購入。そして開封してウィンナーを取り出すとそれが水平方向に切られていて0.5本で二本だと思っていたのが実は一本だった。もちろん上面には円形のある外側の方を向けてあり、見た目は二本入っているように見える。注意深く観察したり開封してみないと実際はわからない。
こう言った製品を見た経験というのは割と多くあると思います。

 これが弁当の外側にウィンナーが丸ごと二本入っていますというキャッチフレーズを掲げていれば詐欺に当たりますが、そうでなければ違法ではありません。見かけだけで錯覚させるのは実は商業では多々使われたりします。さすがにウィンナーを半分にぶった切るのは大げさな例ですが、ほとんどの消費者は初期の見かけで大半を判断しようとする傾向にあり、そういう傾向を逆手に取ったれっきとした商法でもあります。

 もちろんいかがわしいとかそういうものではなく、あくまでマーケティングのプロフェッショナルによるノウハウでもありテクニックともよべるものです。大手企業や出版社などにはこの手のマーケティングの専門が数人存在しています。

 半分のウィンナーも袋とじも購入して開けてみなければわかりません。購入させるということが最終段階にある製品はそれで売り手側にとっての役割を終えます。どのような製品もできるだけコストや制作時間を抑えることができればそれに越したことはありません。法律の範囲内でごまかすという行為も商売では確立された手法です。ですからこう言った製品を一概に非難するというのは少々短絡的かなと自分は思います。


 では、対象を逆転させてなぜこのような経緯になったのかを検証しましょう。
そのコメントされた方には酷ですが、ある種のステレオタイプが働いたのではと推測します。

袋とじの大体の特性は秘密性を秘めています。週刊誌などのアダルト写真などは買わせるためのものですが、ゲームブックなどではゲーム性という観点から謎解きの解答がそこに記載されていると思ってしまいます。
よって「袋とじ=謎の解答」という固定観念が定着してしまうのです。
そういう色眼鏡を通して袋とじのある本を見たときに「袋とじが必要なほどの謎解きがある」と錯覚してしまいます。
実際に開封したときにその内容がただの後日談だったので、そのような開封前の期待感が逆転して失望へと繋がったのではと思います。無論袋とじは謎に対する回答にしないといけないなんてルールも法律もありませんから何を記載してもいいのです。ですが先入観がそれを一方的に決めつけた感じですかね。

 その他、パラグラフの総数もそういったイメージとして作用します。150だと短編のように見えても、300だとかなりボリュームのある冒険ができそうだと錯覚してしまいがちです。


どのような人であれ、イメージや固定観念というのは存在します。
よくブランド性や知名度などで物事の判断基準を立てる人、結構見かけるでしょう。内容や本質を検証せずに見た目や名前だけで様々なものの総合基準を即座に決定づけてしまいます。

このようなイメージや先入観は一度決定付かれてその人の記憶に定着してしまうと中々覆せないものです。一時期騒がれた「洗脳」のメカニズムによく似ていると思います。
これを商売上でのマーケティングに利用する企業や新興宗教は結構あります。大手企業ならほぼ利用していると言っても過言ではないでしょう。
マクドナルドやユニクロのように格安の商品を大々的に売り出して、安いとイメージ付けさせ、格安として告知した製品以外の商品は少し高額で売るという方法ですが、これが割と上手くはまったようです。マクドナルドは別の問題で失脚しましたが、格安というイメージ商品に扇動された顧客層は安いからアソコにしようと繰り出し、知らぬ間に高額の出費をしたのにもかかわらず得したと満足してしまいます。
 少し考えれば高額かなと気づくものですが、ステレオタイプの傾向の強い人はイメージや先入観でほぼ行動します。本当に重症だと高額であると数値やデータを見せても信じない人すらいます。そこまでバカな奴いるのかよと思いますが、嘘のような本当の話です。

それだけ固定観念…いわゆる洗脳の力というのは膨大です。ですからマーケティングに置いてイメージ作りをすることは製品の企画開発及び広報では重要視されていたりします。
この傾向が強いとあらゆる事象や物事をイコールで結びつけようとします。「外車=高級車」「中国産=粗悪品」など、詳細な品質を中立的に検証して考察せずに、漠然としたカテゴリーを短絡的な基準で色分けしようとします。考えるということを放棄してイメージや感覚、感情だけで認知判断する傾向にあるのです。

 前の記事でも話題としましたが、「考える」ということは否定から始まります。肯定してしまうとその対象についての考察は完了したと判断してしまいますので、何か事象に関して奥まで突き詰めたい場合は否定から始めます。推測を立ち上げてそれを否定的観点で突き詰めて検証して決定的なインファレンスを決定づけていく。このように進めていくことで考察を深め真実を掘り下げていくのです。こう言ったことは主にクリティカルシンキングと呼ばれています。

 イメージ、先入観、固定観念、ステレオタイプ、呼び名は様々ありますが、このような習慣を否定して考えるという行動を習慣づけていくことで、視野性は格段に飛躍します。そうなると今まで見えてこなかった部分も見えるようになります。もちろん発想や創造の力にも結びつきます。個人的にはこう言った考察を阻害する分子を撤去することを「憑き物を取る」と表現しています。(同じ表現をしていた作家にインスパイアされた形ですね)

脱出ゲームブックなどのロジカルパズルなどもこう言った先入観が謎解きを阻害する箇所が多々あります。論理思考にイメージや固定観念は不要です。そう言った憑き物を取り去ることにより回答への方法が見つかるケースが多いのです。


 憑き物に固執してしまった消費者層はその特性からマーケティングに置いてはとても扱いやすいターゲット層として重宝されます。
どのような製品でも企画開発の段階の初期でターゲット層を設定します。見た目や初期のイメージで判断してしまう考えない層は美味しい顧客でもあります。
袋とじの件でもそう言った特性をうまく利用して顧客を取り入れたのだと思います。袋とじはそれだけでも謎が含まれると錯覚してしまいますし、何より袋とじは買わなければ中を開封して確認しようもありません。売ってさえしてしまえば利益となってしまう業界です。袋とじを見つけた時にこの袋とじの中は本当に謎解きの解答が書かれているのか…実はただの後日談かもしれないなんて疑う顧客もいませんからね。その心理を利用したプロフェッショナルならではのノウハウが活かされたイメージ商法でもあります。

 謎解きの解答を仕込むにせよ、知ったところで読者側に何の影響も変化もカタルシスも与えない謎を適当にブッこむ手法もいいのかもしれません。私がずる賢い作家ならそうしますね。あとで後日談だけじゃないかと言われた時に、謎とその謎の答えがちゃんとあるじゃないかと反論する材料にするためです。何の伏線も論理も持たない謎なんかは誰でも即席でいくらでも作れます。適当にでっち上げてブッ込んでハイっそれで謎の出来上がりです。何より時間もかかりませんから締め切りにも間に合います。

 前述のステレオタイプの強いターゲット層だと購入時にイメージ付けられた「袋とじ=謎の解答」のイメージ付けが結論付けされてしまい、それが否定されることなく最後まで引きづられます。ゆえに最後がただの後日談であれ、壮大な袋とじと錯覚して評価する顧客も出ていることでしょう。それもそれで出版社のマーケットのプロフェッショナルの思惑通りなのです。さすがはプロのなせる技ですというほかないですね。売切販売の商業物は売れることが最終目的なわけですから詐欺に当たらなければ何も問題はないのです。それでも何か解せないという消費者がいるなら次回からその手の作家の作品は買わないようにすればいいだけなのです。売れなければそのような作品も出してこなくなります。それで万事解決します。

 どのような商品でも玉石混合の世知辛い世の中です。詐欺にすら当たらなければ良いという哲学で商売する輩もいます。ですから消費者側で考えて選別する習慣をつけなければ、商品全般のイメージクォリティアップなんてないのです。そう言った観念を無視してブームが去ったのは品質の悪い製品を横行させた売り手のせいだけだというのは少し論点が違うような気もするわけです。


 脱出ゲームブックなどは難解でロジカル的な謎解きを提供するが上に、ターゲット層はそう言った問題を解決するようなロジカルシンキングの傾向を持つ読者層がターゲットとなってしまっています。そういった層は固執傾向が低い上にそれなりに考察する習慣を持っているので、小手指だけのごまかしは効きません。そんな不利な状況でも手抜きせずに地道に出版し続ける商業努力には頭が下がります。決してマーケティングが上手いわけではありませんが、クオリティ重視で生き残ろうとするゲームブックがあるということはまだ捨てたものではないですね。劣化コピーと呼ばれるまがい物も出る(出た?)かもしれませんが、それに屈せず頑張ってもらいたいものです。


今回、脱出ゲームブックの感想とマーケティングの一部について書きました。
posted by 文芸遊戯研究会 at 07:19| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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